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情報がないから一層そういうことができないわけです。奥さんとの関係がいったいどういうことかという情報がないかぎり、それは不可能ですね。私たちは奥さんには知らせるのが人間として必要だというように当人を説得することがいちばんいいと思いますね。人生の最後にそれを受け入れるかもわからないから、最後まで断念してはならないと思います。感情吐露をチャンスに生かす。
西立野 次に昨日ディスカッションした同じケースなのですが、その中の違う問題点について検討してみたいと思います。昨日の〔症例3〕のケース、胃癌の29歳の男性に関して病名告知、病状告知の時期についてです。この方のような事例は比較的多くあると思うのですが……。
Andrew 今の説明を聞きながら思ったのですが、この患者さんは自分の生きかたを最後までコントロールできたのではないかとあなたは言われたけれども、その確証は何でしょう。
発表者 真実を伝えなかったからコントロールできたというよりも、主治医が患者さんにあと完治までに2年かかる、それでもどうかわからないと言って、それから患者さんは少し姿勢が変わりました。それまでは治してほしい、治りたいという本当に強い気持ちがあったのですけれども、その後もその気持ちは変わらないのだけれども、むしろ人に対して何かをしてほしいというよりも、自分で普通の生活をする、だから家に帰りたいといって帰る日も帰る時間も自分ですべて決めて、点滴も外してほしいと本当に自分のしたいように外泊をするようになったのです。それで患者さんが自分で主体的に生きるようになったと理解したのです。
Andrew 余命が1〜2週間だということを知らされていたら全然違った生き方をしたかったということも考えられはしませんか。仮に短いプロジェクトでもこれはやっておきたいというようなことがあったかもしれない、その点はどうでしょう。
発表者 そのとおりだと思います。
Wendy 家族の希望に沿った形で患者に対して妥協したわけですね。短期的にはうまくいったように思えても、長期で見た場合には心理的な悪作用というのがかなり大きいというケースではないでしょうか。
私ども医療スタッフとして考えるべきことなのですが、患者さんに真実を伝えたら最悪の事態として何がどういう状況になるかということを考えるべきだと思うわけです。本人が非常に不安になったり怒りを感じたりすると、感情的にあちらこちらに当たり散らすというようなこともあるかもしれない、悪口雑言を吐くかもしれない。しかし彼の表現というのはわれわれにとって一つの手だてというか、彼を理解する一つの道筋を与えてくれるようなもので、むしろそれをもっと許容すべきだと思うわけで、そのことをディスカッションするチャンスが逆に与えられるのではないか、そしてそれを機に死について一緒に話し合うチャンスも生まれてくるのではないかという気がするのです。
真実を告げられて死ぬ患者さんはいないのです。われわれケアを提供するものとしては、自分が苦しいということは逆に自分が怖がっているのではないかということで、それが真実を告げることを妨げてしまっているのではないかというように思うわけです。患者さんとともに苦しむというか、人間の感情をむきだしにすることは癒しのプロセスの一部であると思うのです。ただ感情をむきだしにするという形の癒しというのは、われわれプロにとっては厳しいしつらいことなのですが、QOLのことを考えると自分の生活をコントロールするということは、あなたの言ったように大事なQOLなのだけれど、希望を持つというのももう一面での大事なQOLだと思うのです。
最後に、自分の気持ち、自分の感情を表現することができるのは希望の大きな面だと思うわけです。臨終の状況での希望というのはいったい何かと考えてみると痛みからの解放ということでもありましょうし、いままでの人生でできなかったことをその時点でしたい、できたということでもあるかもしれない。夫なり神様との和解、心の平安を得るということかもしれない、愛する人との和解であるかもしれない、それがすべて希望につながってくるわけで、それは心の安らぎをもっての死を可能にする希望だと思う。そういうように考えると決して真実を話すということは悪いことではないということで、真実を話したからこういうように希望も可能になるわけです。
武田 英国の専門家からたいへんよいコメントをいただいているのですが、本人の希望に従って告げるべきだったかというのが一つ大きな問題だと思います。

 

 

 

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